MH的自己紹介
建設日:2004/09/30
更新日:2004/09/30
■ 私の活動歴〜新聞報道より〜
私が関わった,2001年の参議院選挙に関する記事です。
▼ 『ヘラルドトリビューン・朝日新聞』2001年8月4日
障害者候補者を迎える無関心
車椅子に乗った男性が東京銀座の中心部で大きな声を出すと、好奇心に満ちた人目が集まった。しかし参議院選挙に立候補している候補者のために、その男性が運動をしていると気づくと、通行人はうつろな表情で即座に目をそむけた。
その男性が何を言っても、有権者の関心を集められなかった。候補者自身も有権者のハートをつかむ言葉は何なのか、苦労しながら演説をしていた。
これは先週の日曜日の参議院選挙に立候補した樋口恵子の東京での選挙運動での典型的な一コマである。
開票が行われ、樋口恵子は初の障害女性国会議員になることはなかった。
しかしこの選挙運動は貴重な教訓を確かに残してくれた。カネ、知名度、強力なバックが日本の政治では欠かせないことが樋口陣営には分かったのである。そして同陣営には、これらが欠けていた。
さらに運動員は障害者に対する無関心を骨の髄まで経験した。
「障害のある人、障害のある人の家族は運動に関心を持ってくれると思っているのですが、全国を回っても他の人からの熱意はほとんど感じられません」。そう語る樋口恵子は小児の時に脊椎カリエスにかかっている。「こうした人たちは政治に関心があるのかどうかすらも疑問になります」。
2週間の運動期間を通じて、樋口は全国を飛び回って支持を訴えた。その間、本拠地東京では10名の選挙スタッフと数10名のボランティアがエネルギッシュに選挙運動を進めた。
中心的な選挙スタッフは主に20代、30代で、ボランティアの多くは身体障害があり、車椅子を使っていた。
運動員とボランティアは毎日、街頭に出て、酷暑の中で演説を行い、チラシを配ったが、努力は報われなかった。
今回の選挙に採用された新たな投票制度は全国的な大組織の支援がない候補者に不利をもたらしたのである。
樋口が立候補した比例代表での当選者の大多数は官僚出身者、組合リーダーといった組織的な背景を持っている。他のライバルは、有名人で、その知名度だけで多くの票を獲得した。
樋口は15年間、身体障害者の権利のための草の根の運動に献身してきた。樋口の支持者は全国に散らばっていて、頼りにすべき強力なネットワークが欠けているため、できるだけ多くの有権者になじんでもらうために、樋口自身が全国を回らざるを得なかった。
全国を回る中で、樋口は大都市部の有権者が極端に無関心であることに気づかされたと語っている。
多くの通行人は選挙のビラを受け取ることさえ拒んだ。
ボランティアの一人である小林高文は銀座の大規模なショッピング・娯楽施設の前での街宣中に落胆しているように見えた。
「この前の渋谷でもビラを配るのは大変だったけど、ここはもっと大変です」。
(無関心)
ほんの数日前に同じ場所で、小泉純一郎総理大臣が選挙カーの上で演説を行うのを聞くために数千の人が集まっていた。
そうした盛り上がりは政治への関心の向上と解釈されるかもしれないが、社会の関心は一握りの人気のある政治家に集中している。
樋口陣営のボランティアの多くは選挙活動が初体験で、社会から無視されて落胆していた。それでも、陣営はねばり強く運動を続けた。
「ビラを配るのは、自分の介助者探しでなれてますから」と銀座で、石栗利之は語った。車椅子で素早く動き回って、通行人に近寄って、満面の笑みでビラを差し出している。「ほら、受け取るひともいるでしょう」。しかし、多くはない。
運動のメンバーが語る、もう一つの不満はメディアの態度である。銀座でのイベントでの際に、スタッフである青野知恵美はすぐ近くにテレビのクルーを見つけた。
「でも完璧に無視するんです。そして有名人の候補者を見つけると撮影のために飛んでいってしまったんですよ」と怒りを込めて青野は語る。。
知名度の低い樋口よりも、有名人候補者について社会は情報を求めているとメディアは主張するかもしれないと青野は言う。しかし、そうした心構えのもとでは、無名の候補者は注目される機会がないと、青野は語る。「公正さはどこにあるんでしょうか」。
しかし、青野にはプラスの面も見えている。ボランティア、特に障害のあるボランティアは選挙運動を楽しんでいた。
「身体障害のあるボランティアの一部は、参加してもどうにかなるのかと懐疑的でした」。そう語る青野は選挙運動のボランティアを担当していた。「だから始めはあまり熱心じゃなかった。でも、仲間がマイクを握って大きな音でアピールをするのを目にして、気がついたんです。自分のメッセージを社会に届けるのはエキサイティングだって。だから、選挙戦は自分たちの挑戦でもあったんです」。
選挙の後で、目に見えて元気をなくした青野にボランティアの一部はがっかりしないようにと励ました。「これからも挑戦を続けなきゃと言ってくれたんです」。
選挙運動では、重度の言語障害があるメンバーもマイクを握った。
「今のスピーチは皆さんを驚かせましたか」と秋山愛子は通行人に問いかけた。秋山も運動の中心的メンバーである。「お聞きになって、不明瞭な発話に落ち着かない気持ちになられたかもしれません。しかし、私たちの社会はこうした人たちをいつも抹殺しようとしてきました。それはまさに樋口が変えようとしていることです」。
秋山は全国ツアー全てに樋口と同行した。それは健康な女性にとっても肉体的に負担が大きいものだった。選挙運動期間中の猛暑はその負担に輪をかけた。
秋山は重い荷物を運び、樋口と共に電車、飛行機に乗った。二人は売り込みツアーの売れない演歌歌手とマネージャーのようだと秋山は冗談を言う。
日程は行く先々で支援者に会う予定になっていて、きついものが多かった。数時間しか睡眠時間が取れないことも多かった。
四国から北海道に飛んだこともあった。温度差は10度以上もあった。翌日には酷暑の九州に向かって南下した。
秋山は樋口を、人生の使命、一緒に暮らす良きパートナー、バランスの取れた心、つまり女性が必要なもの全てを備えたロールモデルであると見ている。樋口と密着して過ごした日々は秋山にとって宝物である。
大変だった全国行脚は大切なチャンスだったと秋山は考えている。なぜなら、自らの限界点を伸ばし、潜在能力を発見させてくれたからである。
選挙運動期間中、秋山以外のスタッフは全国行脚ほどは肉体的にきつくはないが、同じ程度の辛抱強さを必要とする仕事に取り組んでいた。
公示日には証紙を3万枚以上のポスター、ビラに貼る作業に取り組んだ。証紙は公選法上、合法であることを示すために義務づけられている。
次の課題は、支援者から推薦を取り付け、樋口に投票してくれそうな有権者に葉書を送ることだった。15万枚の葉書が送られた。
選挙運動の最後の数日間は支持を求めて、数千、数万通の電話をかけることに費やされた。
(ポスターの大変さ)
スタッフの中でも最年少の林嘉代はこうした事務作業の責任者として作業日程、シフトを管理した。大学卒業後間もない林にこの仕事が任されたのは、国政選挙での運動員としての経験を買われてのことだった。
樋口陣営はポスター貼りで苦労した。比例代表の候補者向けには、公営の掲示板が準備されなかったのである。
7万枚のポスターが認められたのにもかかわらず、合法的に掲示する場所を見つけるのは骨が折れた。大企業や組織とのコネがある候補者だけが解決策を見つけることが出来た。
「私たちは効率を考えて、ポスターではなくビラに重点を置くことに決定しました」と林は語っている。
林が選挙運動に加わったのは、望月宣武が助けを求めたからだった。望月は東京大学の学生であり、選挙運動で重要な役割を果たした。
東大に入学直後に、同級生が「エリート主義過ぎる」ために、友達になれないと望月は気づいたと言う。
「今学期は大学に2回しか行っていません。それは他に大切なことを見つけたからです」と街頭での演説で望月は語っている。
選挙運動期間、またそれ以前の数ヶ月に及ぶ準備段階から、望月は東京都町田市の事務所で多くの時間を費やして、広範囲の業務を担当した。事務所に泊まり込むのもしばしばだった。
多忙な日々に耐えられたのも、樋口が国会に行くべきだという信念のおかげだったと望月は語っている。
民主党政務調査会主査の鈴木賢一は樋口の選挙スタッフにヒューマンスキルを発見した。
「派閥に分かれてしまったり、集団内で敵意を抱いてしまいがちですが、樋口さんのスタッフの場合にはそんなことはありませんでした」と語る鈴木は党の業務として6月に樋口陣営に加わった。
「他の人のニーズにとても気を遣っています。それは、スタッフの多くが身体障害や精神、知的障害のある人との経験を持っているからでしょう」。
鈴木が感銘を受けたのは、スタッフが樋口候補の健康、精神面に多大な関心を払っていることだった。樋口陣営は選挙戦に勝利しなかったが、民主党は同陣営から学ぶべきことがあると、鈴木は考えている。候補者を大事にするという方針は全ての候補者、政治家が自らの力をいっそう発揮するのに役立つと、鈴木は語っている。
樋口恵子がついに「がんばる」を口にした
自らの国会への道を阻んだ最大の障壁は新しい投票制度だと樋口恵子は語った。
「全ての草の根の運動にとって、国政に代表を送ることは非常にむずかしくなってしまいました」と、有権者が個人、政党を選択できる新しい比例代表制度について語る。 樋口は15年間、市民運動のリーダーとして率いた経験があり、1994年から4年間町田市議を務めた。
こうした経験から障害のある人は、自分たちの要求を真に理解している議員が必要だと樋口は気づいた。
しかし、樋口は再度、国会を目指すつもりはないと考えている。
「立候補すると決意した時、結果がどうであれ、この挑戦は最初で最後だと考えました。今は、市民運動に戻ります」。
樋口は1951年に高知県で生まれた。脊椎カリエスにかかり、10代に数年を入所施設で過ごした。
現在、身長は136センチ、肺活量は同年齢の平均と比べて5分の1である。
樋口にとって単に歩きながら話すことさえ、負担である。
しかし、樋口は全国を回り、出来る限り多くの有権者に触れるために、街頭を歩き話しかけた。選挙に勝つために。
「選挙戦で自分がこわれるんじゃないかと思っていました」と樋口は語っている。
樋口の夫である近藤秀夫は、樋口のエネルギーが選挙戦終了まで続いたことに驚いている。
「もう30年も一緒にいますが、彼女がこんなにたくましいとは知りませんでした。本当は今でも、そんなに強いとは思いません。支持者から力をもらっていたのでしょう」。
樋口の支持者の多くは、樋口が障害者の自立生活を推進をするための活動中に出会った障害者である。
この国の重度の障害を持つ人は親に頼るか、施設にいるという選択肢しかないことが多い。樋口は具体的には介助者への公的負担を増やすなどの形で、こうした社会的環境を変えたいのである。目指しているのは、重度の障害者が自立を選べる環境である。
樋口の重要政策の一つは、障害のあるアメリカ人法(ADA)の日本版の実現である。ADAのねらいは、米国社会を障害のある人にとってバフアフリーにすることである。
樋口は自らの障害を肯定している。障害が樋口に社会での明確な使命を与えてくれたからである。しかし、若かった時には、自分自身を受け入れることは必ずしも生やさしいことではなかった。
「自分の障害の分、他の人よりも余計に努力しなきゃならないといつも思っていました」と樋口は語っている。
身体障害を欠陥だ、治すべきものだと見なす人が多い。そうした見方のせいで、障害者は自分をありのまま受け入れることができない。
障害を乗り越えようとがんばり過ぎて、身体を悪くしてしまう仲間をたくさん見てきたと樋口は語る。
「だから私は<がんばる>と言うのが嫌いでした。でも選挙戦が始まると、自分ががんばると言っているのに気づきました。自分自身の気持ちを、これ以上正確に表す言葉がなかったのです」。
連立政権は過半数を悠々と超えた。福祉予算が小泉政権の改革政策のもとで削られるのではないかと樋口は気にかけている。
「助けを求めても、もっとがんばれと言われるだけになってしまうのでは。失敗は自分の責任にされてしまう」
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朝日新聞(原文: 赤本真理子,翻訳: 長瀬修)
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